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1.田口町に残っている昔の様子を伝えるもの
(1)寺院・神社および境内にある文化財
ア.白法山清和院政淳寺(はくほうざん せいわいん しょうじゅんじ)
この寺は田口町にあり、浄土真宗大谷派に属する。江戸時代、利根川の洪水に
より城近くから、榎町24に移り(千代田町四丁目、旧ニチイのところ)、さらに
昭和四十六年暮れに現在地に移り四十八年に完成したものである。空襲で古いもの
は焼けてしまったが、七高僧御掛図・親鸞上人御掛図・過去帳の一部が残ってい
る。本尊は阿弥陀如来である。
墓地には萩原朔太郎の墓があり、全国から訪ねてくる人も多い。他にも高桑闌更
(たかくわ らんこう・芭蕉堂)の句碑があずまやの近くにあり、相葉有流の書に
なる「枯れ芦の日に日に折(れ)て流れけり」が見られる。
○萩原朔太郎(1886〜1942)前橋に生まれた詩人。
「月に吠える」「青猫」などの詩集がある。
○高桑闌更(1726〜1798)金沢に生まれた天明中興の俳人。
高桑闌更の句碑
イ.赤城山宝林寺(あかぎさん ほうりんじ)
この寺は田口町にあり、曹洞宗で本尊は千手観世音菩薩である。越後国(新潟
県)高田林泉寺の末寺で由緒は明らかでないが、戦国時代の越後の長尾輝虎(上杉
謙信)が小田原の北条氏康と戦ったときに従軍した越後の一僧侶が
、血を血で洗
う人生の無常を痛感し、多くの戦没者の菩提を弔うために橘山の南麓に草堂を営ん
で、観音像を安置して供養した。後に現在のところに移されたのが、この宝林寺で
あると伝えられている。
開創の年月は、記録が焼失して不明であるが、江戸時代三代将軍家光の時代であ
るともいい、開基は松平重良公で、延宝四年(1676)と記された位牌がある。
開山は林泉寺から招かれた鉄山正鑚禅師で
、本尊の奥にはその像があるが作成時
期は明らかではない。門の外塀ぎわには、六地蔵や馬頭観世音、石仏などが並んで
いる。境内には、昭和五十六年8月に造られた真新しい六地蔵が並んでおり、その
他にも地蔵尊などの石仏がある。檀家は200軒である。
○六地蔵(宝林寺門前)
宝林寺の門前には、正徳元年(1711)に造られた石造の六地蔵が残されて
いる。地蔵が六つの分身となって、六道を輪廻転生する衆生を救済するという六
地蔵信仰は、平安時代末期から始まったといわれる。六体の像は出典により諸説
があり、また、持ち物、印相による違い
もある。
桃川小地区には宝林寺以外にも、荒牧の自性寺(現在廃寺)墓地内にある寛政
年間に造られたもの、関根町十王堂霊園、下小出霊園、香集寺にある石幢に彫っ
た六地蔵などがある。
右から 延命地蔵 右手・しゃくじょう、左手・如意珠
不休息地蔵 両手で柄香炉を持つ
讃龍地蔵 両手でとうばんを持つ
破勝地蔵 合掌
護讃地蔵 両手で念珠を持つ
弁尼地蔵 右手・施無畏印、左手・引摂印
ウ.橘神社
この神社は田口町にあり、誉田別尊を祭神とする八幡宮であった。しかし、明治
四十年(1907)3月に許可を得て、本社の境内末社(菅原神社・神明宮・大山
づみ【示へんに氏・以下同】神社・愛宕神社)および、字諏訪の無格社諏訪神
社
、同境内末社四社(琴平神社・菅原神社・石尊神社・大山づみ神社)、字天神
窪の無格社諏訪神社、同境内末社三社(神明宮・厳島神社・大山づみ神社)、字橘
の無格社橘水分神社、同境内末社水神社、字砂押の無格社雷電神社を本社八幡宮に
合併し、橘神社と改称して現在に及んでいる。
境内には田口町公民館がある。本殿の裏には、伝説で知られるお社宮司様の石宮
がある。また、地元の人から福守様と呼ばれる性神は、水分神社ともいわれ境内の
一段高いところに祭られている。
本殿の裏には、たくさんの石宮や道祖神の文字塔が見られる。
橘神社
本殿の裏に並ぶ多数の石宮
○福守様(ふくもりさま)
福守様は、現在鎮守橘神社の境内に祭られているが、水分神社ともいって、そ
の昔、広瀬、桃木川両堰の引き入れ口の手枠に、偉大な男性の性器(御神体)が
引っかかっていたのを人足が引き上げて小屋の
かたわらに祭ったのが始まりと
いわれている。
昔は、現在と違ってこうした男女の性に関しては、非常に神聖なものとして崇
拝されていたものらしい。また、一説には、この御神体は洪水のときに上流から
流されてきたものであるとも伝えられている。
前橋藩主松平大和守の家臣で富士見村小暮の石田某という堰方の士で広瀬、桃
木川両堰の監督、人夫の指揮を命じられた武士が、つれづれに自分の刀で石の御
神体を刻んで併せ
祭って水の安全を祈ったという。この御神体には石田氏と刻
んである。なお、この他に大小奇形あわせて数百の御神体が祭られており、福運
の神、性病の神として、一時は前橋美妓連中の信仰厚く、毎月28日の縁日には
社前、列を
なして大変ににぎわった。だが、戦時中、淫祠邪教を禁じられてか
ら訪れる人も少なくなった。しかし、今でもひそかに参拝する者がいるともいわ
れている。
(2)路傍にある昔の様子をつたえるもの
ア.青面(しょうめん)金剛像・千庚申供養塔
政淳寺から南へ少し下がった右側の畑の中の墓地に、宝永三年(1706)11
月吉日に造られた一面六臂(顔が一つで腕が六本)の青面金剛像と寛政十一年
(1799)3月吉日に造られた千庚申供養塔がある。どちらも庚申を祭るもので
庚申塔という。
60日に一度めぐってくる庚申の日に、その夜を眠らずに過ごして長寿や健康を
願う信仰があり、これを守庚申とか、庚申待という。この信仰はもともとは、「人
の体の中には三尸
(し)の虫がいて、庚申の日には体から抜け出て、天の神様に
その人の罪を告げて記録し生命を縮めようとしている。この三尸を制する方法は、
庚申の夜を眠らずに守り、三尸が天の神様に罪を訴えることができないようにする
ことである。」という
、昔、中国から伝わってきた道教の信仰からきたものであ
る。
守庚申は、平安時代には宮中などにおいて貴族の間で行われていたが、鎌倉時代
には武士たちも行うようになった。中世の末からは、しだいに庶民の間にも広が
り、江戸時代には全国的に広まっていった。
それで昔は、庚申の日になると当番の家に集まり、一晩中寝ないで酒食をともに
し、語り明かしたのである。これにもとづいて、この夜は女人を避けるべきだと
か、この日に
結ばれてできた子供は泥棒になるなどという言い伝えがある。
中世末、庚申信仰が庶民の間に広がったことにより、守庚申は庚申待に変わり、
室町時代末期から庚申待の供養塔を建てることが流行しはじめた。江戸時代には庚
申塔造りが
たいへん盛んになり、特に60年に一度の庚申年にあたる寛政十二年
(1800)と万延元年(1860)には、たいへん多くの庚申塔が造られた。
桃川小地区には、ここ以外にもたくさんの庚申塔が見られる。金剛寺や川端の愛
宕神社には、比較的古い時代に造られた石宮型の庚申塔や上部に日月、下部に三猿
(見ざる・言わざる・聞かざる)を刻んだ庚申塔が見られる。また、十王堂霊
園、
日輪寺、荒牧神社、香集寺などにも多数の庚申塔が残っている。

青面金剛像(下部に三猿) 千庚申供養塔
イ.お社宮司様(おしゃぐっちゃま)
田口の橘山のふもと、字諏訪に人の背たけと同じくらいの自然石がある。それが
明治時代の神社合併のときに橘神社に合わせ祭られた通称「お社宮司様」の旧地で
ある。今ではほとんどお参りする人の姿は見られなくなった。
その昔、前橋藩の侍に蘭野庄兵衛という人がいた。橘山のふもとに住んでいて、
その鬼門よけとして建てられたのがこの社だといわれている。祭神は天綱(測量用
の長い綱)であったが、里人たち
には御神体は長虫、すなわち蛇であるとして信
仰されたものと思われる。養蚕の神様としてたいへんご利益があるといわれ、お参
りの折にはねずみよけに二個の利根石を境内から借り、その
時に生体(蛇の姿)
で願いたいと祈願して急いで帰り、借りた利根石を打ち鳴らすと不思議にも必ず巨
大な青大将が姿を現して蚕の棚をはいまわったり、梁(はり)の上を走ったりし
て、猫の入れないような穴に入ってねずみを
とり、蚕が繭になるまで守ってくれ
たそうである。しかも、その蛇はどれも尾の先が切れた通称「神様蛇」であったと
いわれている。
なお、祈願の際に生体でなく願いたいと頼めば、絶対に姿を現さないで蚕をねず
みの害から守ってくれたという。そのお礼には、利根石を倍の四個にし奉納する習
わしであった。御神木はけやきの巨木で、その洞穴にたくさんの蛇がすんでいた。
明治の神社合併後
、その神木を切ることになり、小枝を切ったとたんに真っ赤な
血を吹き出したので、恐れて切ることをやめたが、御神木に手をかけたきこりはま
もなく原因不明の病気にかかり、ついには気が狂って死んでしまったそうである。
ウ.経塚
南橘村の耕地名や水帳に、古くから「京塚」または「経塚」という地名があり、
古墳の一種として誤って伝えられていた例もある。田口の橘神社から一段下がった
塩原家の宅地内に樹齢百年に
およぶ枝垂れ桜がある。この木の根もと付近の耕土
の中から、古い時代の経文のある石が発見されるといううわさがあり、昭和30年
ごろ数多くの経文石が出土した。言い伝えによると、昔この一隅に「経塚」があ
り、多くの経文石が埋められていたが、不浄の肥料や土足によって汚されるのを恐
れて枝垂れ桜を
植えたものだそうだ。
エ.阿弥陀如来
国道17号の西側にある田口観音堂の墓地内に、上部に穴のある平らな石が立っ
ている。この石は阿弥陀様としての信仰が深く、特に足の病気の人を治してくれる
ので、お参りに来る人も多かったようである。4月8日は祭日として子供たちが集
まり
、毎年余興などをやって楽しみ、また、家ごとに赤飯を供え、福引なども行
われ、たいへん賑わっていたそうである。ただし、現在は昔ほどは盛大に行われて
はいないようである。この阿弥陀様には、一つの伝説がある。
昔、法華沢電車停留場より西に約一丁(約109m)ほどのところに、表面を土
盛りした石橋があった。いつからともなく、ここを通り橋を渡る
者に足の病気の
人が多く見られるようになり、荷馬等もこの橋のところまで来ると前へ進まないこ
とがたびたびあった。あまりに不思議なので、今から8、90年前、神様にお伺い
したところ「土橋の下に一枚の
石が土台になっているが、この石は以前阿弥陀様
として信仰された石碑であった。それがある時、無信仰の人たちのために、一枚石
で橋の間にちょうど都合がよいというわけで土台石として利用されてしまった
。
今、この石を掘り出して祭れば、病気の人も全快し、交通にも差支えがない。」と
いうお告げがあった。そこで村人たちは、すぐに掘り起こして現在の位置に祭り信
仰したところ、病人も治り
、以前のように通るのにも困らなくなったという。こ
れより後、足の悪い人はこの阿弥陀様にお願いし、赤飯をささげて供養する習わし
になったそうである。
阿弥陀如来
オ.薬師如来
田口町字新町の桃木川の西側に両手で薬つぼを持った形の薬師如来が安置されて
いる。文化二年(1805)11月に造られたもので、石像の土台には、「薬師
講・新町中・田口村中・関根村中・荒牧村・横室村・真壁村・米野村・中箱田
村・
下箱田村・川端村」等の銘があり、近辺の村々から広く信仰されていたこと
がわかる。
この薬師様は、以前は三方辻の中央にあったが、ある時、宝林寺に納めることに
なり、村民が大勢で運んだが、この土地を離れるのを悲しんでとても重くなり、何
かと思いがけない災難が続いた。村民たちは、これは薬師様のたたりに違いないと
思って、元の位置に移したところ
、今度は軽くなり、簡単に戻ってしまったと伝
えられている。この薬師様は、目の病気にご利益があるとして信仰されている。薬
師様に祈願して全快した人は、御礼におかけを作って
薬師様にかけてあげた。4
月7、8日と10月7、8日には、祭礼が行われている。
薬師如来
カ.筆子塚
嘉永五年(1852)8月に、塩原慎斎の弟子が師匠のために建てた石碑であ
る。慎斎は文化三年(1806)に田口に生まれ、江戸に出て医学を研究していた
が、書道にも優れていた。帰郷して田口に医を開業し、そのかたわら近隣の人々の
願いによって、寺子屋を開き弟子の教育を行った。慎斎は弟子に対しても我が子の
ように
深い愛情を持って指導したので、老若を問わず「お師匠様」の愛称で通っ
たといわれている。筆子塚は弟子たちの建立したものであるが、事前にお師匠様に
知られてはお叱りを受けるので、無断で造り碑文をお師匠様にお願いした。さすが
の慎斎も弟子たちの熱心な気持ちに動かされ、碑銘は自らの筆をふるったそうであ
る。その台石には弟子たちの名が連記されている。
なお桃川小地区には、この他に竜蔵寺神明橋南墓地にある渋川杲庵の墓や龍蔵寺
町加々美家宅地内にある加々美養仙の筆塚、下小出霊園、香集寺などの筆塚が知ら
れている。
筆子塚
キ.秋葉宮
田口町字新町に、寛政四年(1792)に造られた石宮型の秋葉宮(秋葉山供養
塔)がある。
秋葉山は静岡県にあり、この山上近くにある秋葉寺内に祭られている三尺坊は、
火防の神として知られている。この三尺坊を一般に秋葉山あるいは秋葉山大権現と
よんでおり、各地の人々の厚い信仰を受けている。秋葉山を信仰する人々は、秋葉
山におまいりして帰村したが、それぞれの町や村にも秋葉山の供養塔を造り、ここ
にも普段お参りできるようにした。
ク.天王宮
田口町字新町の秋葉宮と並んで建てられている。文政三年(1820)に造られ
たものである。祭日は7月14、28日で、田口、関根の新町が灯篭付けをして祭
っている。

秋葉山供養塔 天王宮
(3)昔を伝える伝説や年中行事など
ア.どんどん焼きについて(田口町・砂川和四郎氏(84歳)のお話)
田口町では、古くからどんどん焼きが行われていました。私が小さいときからや
っていましたが、それより前からやられていたようです。田口のどんどん焼きは、
小正月、十四日の早朝に行われました。
私たちが子どものころは、子どもが中心になり大人は手を出しませんでした。小
屋を作るのも上級生が先にたってやりました。竹、松、杉などをもらいにいくのも
全部子どもの仕事でした。どんどん焼きの行事は男の子の行事だったので、女の子
は参加することができませんでした。
どんどん焼きで燃やす、お札、だるま、松飾りなどを集めるのも子どもたちでや
りました。そのとき、お金ももらいました。その年にお祝い事のあった家からは、
たくさんお金をもらいました。集めたお金が少ないときには、「つらぬき」といっ
て、通る人の足をとめてお金をもらいました。そのお金で、みかん、おかし、こん
にゃく(おでんをつくる)などを買いました。
小屋は、各組ごとに六畳位の小屋を作りました。竹を骨組みにして、その周りを
松、杉、わらなどで囲んで作りました。冷たい北風が小屋に吹き付けても、小屋に
入ると寒くありませんでした。
十三日の夜は、小屋にとまって寝ないで番をしました。ほかの地区から、小屋に
火をつけに来たり、小屋を壊しに来たりするのを見張るためです。一晩中おきてい
て、飲み食いをして楽しみました。
十四日の早朝に火をつけ、持ち寄った餅(もち)、繭玉(まゆだま)などをどん
どん焼きの火であぶって食べました。どんどん焼きで焼いた餅を食べると、その年
はかぜをひいたり、病気にかかったりしないといわれていました。また、お尻を出
して火に
あててたたくと厄除けになるといわれました。
このどんどん焼きは、戦争が始まるころまで行われていましたが、戦争中にとぎ
れ、戦争が終わったあとから昭和三十年ころまでやっていました。その後ずっとと
ぎれていましたが、3、4年前から田口町の育成会が中心
になって、また行われ
るようになりました。(1984年 1月26日)
イ.岩神の飛石(とびいし)と片石山(かたこくやま)
田口町の西北に片石山がそびえている。この山は、奇峰として知られているが、
つぎのような話が伝えられている。
「昔、いく日となく大雨がふり続き、利根川が大洪水になりました。そのとき、
山の北側の岩が利根川に落ち込み、流れ流れて岩神にとどまりました。これが今の
岩神の飛石で、残った山を片石山と呼ぶようになったということです。」
なお、頂上付近には、
心あてに見れども見えずとね河の
ながれの末はうすかすみつつ
と刻まれた藤原(狩野)利房の歌碑がある。
(平成16年注・岩神の飛石については、浅間山の噴火の際に流れ出た物との
説もある。)
ウ.橘山と日本武尊(やまとたけるのみこと)
田口町の北部にある橘山には、古くから伝わる伝説がある。
現在、田口の鎮守橘神社に合併された「橘水分神社」の旧地は橘山である。祭神
は、水分神、日本武尊の二神が祭られている。水分神は農業神である。
日本武尊は、12代景行天皇の皇子である。父天皇の命を受けて、九州の熊襲
(くまそ)を征伐した。続いて、東国の蝦夷を征討するために海路を東に進めた
が、相模(神奈川県)の走水の沖(今の浦賀水道)で海が大荒れとなった。船が沈
もうとしたときに、きさきの弟橘姫
(おとたちばなひめ)が海に身を投げて、竜
神の犠牲となり、尊の危機を救った。
尊は予定通り東国を征伐して大任を果たしたが、その御心のうちに唯一の憂いを
残すのは、海に身を投げた弟橘姫のことであった。尊が姫をしのばれた遺跡は多い
が、この橘山も尊が「橘姫恋し」と姫の冥福を祈念された遺跡である。
(4)その他
ア.塩原塚古墳
この古墳は、田口町字千手堂580の1、塩原和雄氏宅地続きの竹林中にある。
旧利根川の左岸の台地の端に位置し、西に急に低く、南はゆるい傾斜をなしてい
る。昭和10年の県下一斉調査にもれ、名称もない一小古墳である。しかし、角閃
石安山岩削石積みの完全な横穴式石室を有しているので、土地所有者の名を取って
塩原塚と名づけられた。
墳丘は、高さ約3m、北側で2m60cmである。径は14m、ただし葺石の根
石の描く円周によった。葺石は、傾斜面のみにあって頂上は平坦である。埴輪は見
当たらない。せん道入り口部から高つき、北側の葺石の上から大かめの破片が出
土した。葬祭に用いたものと推定される。
石室は、横穴式両袖型である。せん道、玄室のみで玄門はない。壁は榛名山二ツ
岳噴出の角閃石安山岩の削石およびきり石で積まれている。削石は五目積みに、き
り石は切組積みにされているものが多い。床は土をたたいて中央を高くかまぼこな
りにし、その上に河原石を敷き、砂利がおかれている。
出土品は直刀が左右壁下から一振りずつ、馬具が玄室入り口近く、その他は骨や
歯と混在していた。玉類は一個も見出されず、歯及び耳環から埋葬遺体は七〜八体
と推定でき、副葬品はおそらく最初の埋葬時に納められ、ほかの埋葬者にはほとん
ど伴わなかったと思われる。以上のことから、この古墳は7世紀に築造され、およ
そ30年使われたと思われる。
塩原塚古墳
イ.石造観音菩薩坐像(市指定重要文化財、平10.4.10)
この石仏は、一石の安山岩より造られた半肉彫りの観音菩薩坐像で、観音山古墳の墳
頂に安置されている。像は二十の蓮華座に坐し、背に舟形の光背(光明を表す装飾)を負
っている。像の両脇には紀年銘が刻まれ、応永二十年(1413)に造られたことが分かる。
また、光背には5つの種子(仏を表す梵字)が彫り込まれている。
象の鼻や目には一部欠損が認められるものの、全体に保存がよく、年号もあることから
石仏研究の基準となるものである。また、観音菩薩は薬師如来と共に、乱世における現世
利益(神仏より現世において受ける利益)を求める信仰の対象となったことから、当時の民
衆信仰の様子を知る上でも貴重である。(「増補・前橋の文化財」より)
ウ.女人講塚・角田無玄書の青面金剛
武井ガソリンスタンド裏の墓地の一角に、天保七年の女人講塚および青面金剛、庚申塔
等がある。
角田無幻は、名を光旒(こうりゅう)といい、江戸時代後期の修験者で書家としても名高
い。北群馬郡吉岡町の出で、後に勢多郡津久田村(現・赤城村)に養子にはいる。さらに
京都に上り、中国の書法を研鑽して一家を成し、京都で職業書家として活躍したが、しきり
に上州に往来し揮毫した。天下に書名が知られていたため、無幻の法帖類は、はなはだ
多い。
エ.道しるべ
昭和三年十一月に田口青年団によって建立された道しるべが、田口町の三カ所に残さ
れている。
○宝林寺前の道路を東に上った防火用水脇
○政淳寺の南、三叉路の西土手上
○田口町北交差点の東側角
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