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8.上小出・下小出町に残っている昔の様子を伝えるもの
(1)寺院・神社および境内にある文化財
ア.赤城神社
この神社は、下小出町にあり、祭神は豊城入彦命である。神社の由緒は不明である。
境内には、玉垣改修記念碑、天保十二年(1841)摩多利神、四天王、石尊宮、文化
元年(1804)3月の双体道祖神、天明七年(1787)と寛政七年(1795)の道
祖神の文字塔などがある。
○四天王(下小出町赤城神社)
毎年、子どもたちが集まり、酒樽に砂を詰めて丸太二本を縄で結わえて裸で歩く。ま
た、大人が獅子を頭に乗せて下小出の下曲輪、新田曲輪を家ごとにまわって歩く。村人
は獅子にかんでもらうと、あせもやはしかに
ならず、かぜを引かないと伝えられてい
る。
四天王
○摩多利神(下小出町赤城神社)
以前は、下小出字上曲輪の桃木川の端にあったが、現在は赤城神社に移されている。
この摩多利神は、徳沢の人奈良一徳斎の筆によるものである。伝染病の神として祭られ
ている。
摩多利神
イ.
越出山香集寺(こいでさん こうしゅうじ)
この寺は、上小出町にあり、臨済宗で、本尊は正観世音菩薩である。相模国鎌倉の建長
寺の末寺であり、由緒は不明であるが、建長寺の住持本覚禅師了道祖安和尚が隠居寺とし
て、延元年間(1336〜1340)に開山したものであるという。本堂は、明治四十一
年(1908)に火災があり、すべて焼失したが、明治四十二年(1909)に建築し、
現在に至っている。
門前には、石幢型六地蔵、庚申塔、馬頭観音などが見られ、境内には延宝二年
(1674)の薬師如来の灯篭や無数の五輪塔、宝きょう印塔、庚申塔、室町時代末期に
つくられたと思われる地獄の責め具といわれる首台、浄頗梨の鏡、業の秤などの石造物が
ある。
築山には藍沢無満の筆塚や無耳翁らの句碑がある。また、明治六年香集寺に開校し、後
に桃川小学校に合併した小出小学校を記念して、昭和六十三年に「小出小学校開校の地」
と刻んだ碑がたてられている。
石幢型六地蔵
○地獄の責め具
香集寺には、地獄の責め具を形どった珍重な石製品が保存されている。
首台は、閻魔の浄頗梨の鏡により、生前の罪業が明らかにされて罰せられている姿の石造であ
る。
浄頗梨鏡は、閻魔王(本地地蔵菩薩)のいる光明王院という一院に多くの丸鏡があり、中央にあ
るのが浄頗梨鏡である。この鏡に向かうときは罪人の宿業が悉く現れるという。
業の秤は、五管王(本地普賢菩薩)の庁にあり、罪業の軽重を明らかにするものである。
(「上州のお宮とお寺」寺院篇より)
○藍沢無満の筆塚
藍沢無満は、通称籐右衛門、号を乙麿、無満、蓼園などといった。江戸時代の末期、寺子屋
や俳諧結社(蓼園社)での活動を通して、前橋北辺の農村に偉大な感化を及ぼし、船津伝次平
や萩原禎助、根井行雄などをはじめとして、明治維新の前後に活躍した多くの人材を輩出した。
碑の表には、無満筆の下記の歌とこの地域を代表する画人青木如園(津久田村の百姓文人)
の描くところの書籍を手にした文人無満の肖像が彫られている。裏面には、「蓼園先生※筆之地
(たでぞのせんせいえいひつのち)教子」の文字とともに116人の弟子の名が刻まれている。
蓼園社では、当時すでに「学校」とも呼ぶ手習い塾を設置し、付属の図書館を併せ持つ教育文
化の総合的学園を誕生させていたと考えられる。
※「えい」の字義は「うずめる」。
(筆塚の和歌) 枝ならす風はみやまのおくも吹く
よし世の中にみみやおほわん 無満
(枝鳴ら須 可是はミや萬廼お具も布九よし世の中に 美々やおほわん)
○香集寺境内の句碑
ゆうがほの 花のあたりで くれにけり 無耳翁
樫の木の 花にかまわぬ すがたかな 芭蕉(無満書)
枝ならす風はみやまのおくも吹く
よし世の中にみみや おほわん 無満
しばらくは 花の上なる 月夜かな 芭蕉(無満書)
筆塚並びに句碑等は、かつては無満ゆかりの屋敷地等にあったが、子孫の退転にとも
ない香集寺に移されたという。
○「小出小学校開校の地」記念碑
明治五年の学制発布の後、寺院あるいは民家を借りて、多くの学校が開校していくが、南橘
地区の設立状況は以下のようであった。
小出 明治6年9月10日 香集寺
桃川 明治6年12月12日 日輪寺
(後に田口、横室、川原島分校を置く)
細井 明治7年1月20日 光運寺
田口 明治7年1月19日 宝林寺
この中で、香集寺の住職・各務大邦和尚が開校した小出学校は、上小出村一村の学校で
あったため児童数が少なく、桃川学校と合併するも住民の要望による分離を2度繰り返し、明
治二十二年に名実ともに桃川尋常高等小学校に合併した。
このような経過から、僧侶各務大邦ならびに上小出村の先人の偉績を後世に残そうと、小出
小学校の開校記念碑を開校の地の香集寺境内に昭和六十三年に建立した。
ウ.小出神社
この神社は上小出町にあり、祭神は豊城入彦命、菅原道真、日本武尊のほか八社、境内末社
に霜川神社、薬王社、諏訪神社ほか八社が祭られている。社伝によると、上野国神名帳に「勢多郡
従五位上小出明神」とあるのに相当する。また、合併された霜川神社も同じく「勢多郡従五位霜川
明神」とある。
境内には、元禄九年と刻まれた灯籠、享保十五年と刻まれた石宮などが残っている。
昭和五十六年、区画整理のため社地が整理された。
(2)路傍や墓地にある昔の様子を伝えるもの
ア.藍沢無満の歌碑(上小出)
庵の蚤(のみ) 一跳々(ひとはねはね)て 草の中
と刻まれた藍沢無満の句碑が上小出町にある。
この碑は簗(蓼)園社中によって建てられたもので、裏面には社中59名の名前が刻まれてい
る。この人々の村々は赤城山麓に点在し、利根川を隔てた子持山麓にまで及んでいる。船津伝次
平の俳号「冬扇」も認められる。
(平成16年注・小出発電所のすぐ東にあったが、小出神社境内に移転した)
藍沢無満の歌碑
イ.下小出霊園にある石造物
○庚申塔 享保二年(1742)十一月
○百番供養塔 寛政五年(1793)十二月
○百万遍供養塔 天明三年(1783)十月
○寒念仏供養塔 宝暦八年(1758)
○五輪塔
○石幢型六地蔵
○百万遍供養塔
百万遍とは「南無阿弥陀仏」を百万回唱える念仏行事である。その行法は、念仏講
中の人々が大念珠を持って車座になり、「ナムアミダブツ」を一唱するたびに、持っ
ている大念珠の玉を次の人に送るものである。念仏の総計が百万回に達すれば完了と
なる。念仏の回数が多ければ多いほど、功徳もまた大きいと信じられ、百万念仏の達
成に庶民のささやかな願望が託され、その完了を記念して百万念仏供養塔が建てられ
た。この行事は農村では、虫送りや厄病送りなどを念じて行われた。
百万念仏供養塔
ウ.設楽八蔵の筆塚
設楽八蔵の筆塚は、上小出霊園内の設楽家墓地にある。
文化十三年下小出に生まれ、明治二十一年に七十三歳で没した。明治維新前後の世情混然とし
た不安な時代において、浮動しやすい青少年の教育にあたり、数十名の子弟に寺子屋教育を施
し、文明開化の新時代を担う若人の養成に専念した。筆塚は、八蔵の人格識見を永遠に記録した
数十名に及ぶ門人達の建立である。
(3)昔の様子を伝える伝説や年中行事
ア.やな場とやな倉
上小出町の南端の一角にやな場という地名が残っている。これは、江戸時代初期に
厩橋城主平岩主計頭親吉のつくった御用やなである。現在も香集寺の隣地の一角に、
一畝ほどの土地があり、やな倉と呼んでいる。一見しただけでは何の印象もないが、
やな場の全盛時代、御用やなの諸道具を入れた倉庫跡だといわれている。
イ.小出の追いはぎ松
江戸時代は非常に交通の発達した時代であるが、本県においても中仙道、三国街道
をはじめ、多くの街道が通っていた。桃川小地区でも、厩橋から沼田を経て清水峠に
向かう沼田街道が上小出の西部から田口に通じていた。上小出にはこの旧道に沿っ
て、以前には松並木が茂っていた。
江戸時代に沼田の在に生まれ、江戸に出て巨万の富をたくわえた豪商塩原太助にま
つわる話が上小出町に伝えられている。
土地の言い伝えによれば、塩原太助が継母の手を逃れて江戸に向かう途中、この
松並木のところで追いはぎに会い、着物やあり金を盗られたという。今でも「塩原太
助の追いはぎ松」と称する老松がただ一本、広瀬川に沿ってそびえている。
(平成16年注:昭和42年完成の小出発電所の建設により姿を消す)
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